「ほんとうの「哲学」の話をしよう 哲学者と広告マンの対話」を読んだ

ドゥルーズが言うように哲学は概念の発明、新しいものの見方の発明。これはブランドやマーケティングにも通ずる。このメガネをかけると世界はこう見えますよ、どう思いますかという投げかけ。

広告のバームクーヘン化、90年代までは事実・編集、表現・手段という3層構造があった。今は事実が抜け落ちている=フェイクニュース。これはまさにバルトが言った作者の死だなと。

広告が認知だけでなく売上まで見る、広告がマーケティング化していくなかで、商品の良い点だけ強調するような広告、見える部分だけの事実を肥大化するが増えた。逆に感情に訴えかけるような広告、印象に残すためだけの広告は減っている。

フッサールの間主観性。

多くの人たちが、他人の考えをお互いに予想しながら、自分たちの考えを形成するという意味になります。広告が成立するのもそのような場所なのではないでしょうか。

アクターネットワーク理論。社会を立つ中心的なネットワークとしてとらえ、あらゆるものが「アクター」として相互作用しているととらえる。

当然、そこにはコンピューターもAIもアクターとして入ってます。

還元と構成。還元はできるが構成は難しい。これはVUCAの文脈なんかでよく語られていてベンチャー企業などではあたりまえの感覚になってきている気がする。

想像力の衰退。サピエンス全史で言うように人間は虚構を構築しそれを信奉する共同幻想によって繁栄した。ただ現代の高度に情報化された社会では「ない」ものを「ある」、「ある」ものを「ない」という区別がなくなりつつある。これが想像力によって虚構を作り出す必要性を排除している。これが退化であるか進化であるか。想像力が人類を進化させてきたのであれば、これは退化=動物化なのではないか。

記憶と忘却について。一冊のテキスト。一冊の難解なテキストを何度も読むことと、数冊の解釈本を読むこととどちらが優れているか。短期的には後者だが、長期的にはやはり前者なのではないか。このあたりは最近のビジネス本なんかを見ると全くその通りだなと感じるし、本だけでなく音楽や絵なんかもほんの少し差異化しただけのものが大量に生産される「情報の深さではなく量」になってきてるのではと思った。忘却に関しては最近でいうと転職して業務内容や業界が変わることに対してどう対処するかを「アンラーニングする能力」が大事なんて言われることが増えた気がする。忘却する能力、忘却を想像しながら記憶するみたい意識は今後より大事になっていくんじゃないかなと。

パレートによるエリートの周流。マルクス 的な支配者階級VS被支配者階級ではなく、実は抗争や下克上はエリート間でしか起きてない。→見えないものは「無い」とされる社会への類似。薄く浅くつながり現実をオブラートにやりすごそうとする社会。

マルクス的資本主義と社会主義の死、その後続く保守的な資本主義のその先にどのような新たなパースペクティブがあるのか。ネット社会による動物化の加速とネットの次のメディアは存在するのか。人間はサイボーグ化していくのか。広告は純粋情報となり脳に直接届くようになるのか。

「ほんとうの哲学の話」というタイトルは釣り気味だった気がするが、哲学に広告の話を絡めながらこれからの社会について色々と想像するにはよい本だった。