著者も冒頭で述べている通り、専門家のためではなく、あくまでも初学者のために平易な文で書かれていて非常に読みやすかった。ちょっと前に読んだので線を引いていた部分を簡単にメモ
ニーチェのギリシャ悲劇のコーラスに関する考察。
「生身の肉体を備えた経験的なものとして感受」しているギリシャの合唱者太刀の感動を、ニーチェ自身が現に「生身の肉体を備えた経験的なものとして」感受している、という「入れ子構造」になっているからです。ニーチェはギリシャ人の異他的なものに対する「共感の仕方」に「共感」しているのです。
「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければいけません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」を正しく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的な物であろうと、「原初の経験」は怪我されることなく時代を生き抜くはずです。
バルトのエクリチュールの囚人、読者の誕生と作者の死
「エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている」のです。
日常的な経験からも分かるとおり、私たちは決して確固とした定見をもった人間としてテクスト を読み進んでいるわけではありません。テクストのほうが私たちを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成してゆくのです。
読者の誕生と作者の死はまさにインターネットであり、オープンソースだ。金銭的なリターンではなく世界のあらゆる場所でコピーされ続ける「誇り」。経済発展を終えて物質主義が終焉を迎えた今、この考えに僕たちは馴染みつつあるような気がする。
サルトルの参加する主体
「参加する主体」は、与えられた状況に果敢に身を投じ、主観的な判断に基づいておのれが下した決断の責任を粛然と引き受け、その引き受けを通じで、「そのような決断をなしつつあるもの」としての自己の本質を構築してゆくもののことです。
主体は政治的に正しい判断をするというサルトルの実存主義は構造主義において批判を浴びることとなる。しかし根底にあるものは似ているし、このサルトルの考え方は現代社会でも十分に通用するように感じる。
ラカンのエディプス
何か鋭利な刃物のようなものを用いて、ぐちゃぐちゃ癒着したものに鮮やかな切れ目をいれてゆくこと、それが「父」の仕事です。
切れ目を入れること、名前をつけること。これはソシュールの説明で見たように、実は同じ一つの身ぶりです。